日本人移民  

サンパウロ市内の私のアパートから車で5分ほどの所に岐阜県人会の事務所があり、渡伯後すぐに歓迎会を催していただきました。
在伯中には、岐阜県人会創立
50周年の式典が催され、当時の岐阜県知事もはるばる参加されました。

岐阜県からの移民数は、戦前戦後を通じて3500名(日本全体では19万人弱)。
私の家族がその後も直接お世話になった梅田さん一家(各務原市鵜沼東町出身)もその中の一家族でした。
お子さんは二人とも立派な医者になっておられます。
またメソサウルスの化石採集やハレー彗星の撮影の時に宿泊させていただいたのは愛知県出身の高木さんでした。
現在ブラジルの日系人は
120万人を超え、4世、5世の時代になっています。

当初、ブラジル入植地は鉄道に沿った未開のジャングルで、
お風呂の好きな日本人は水辺に住居をかまえたため蚊が媒介するマラリアで村が全滅したり、
あまりの重労働に自殺者や発狂される人が出たりするなど、大変な苦労があったと記録されています。

日本人移民がブラジル国に大きく貢献した一つに、野菜の栽培があります。
また、それにより生野菜を食べなかったブラジル人の食卓に生野菜が上がるようになりました。

フェイラといわれる移動市場(日常の食料を購入する場)では、今でも多くの日系人が店を開いています。
梅田さん一家もフェイラで野菜を扱われています。
日本人が野菜から手を引いたら、ブラジルの野菜流通はストップすると言われています。

日系人の活躍はめざましく、農業に留まらず政治や経済、芸術、医学など幅広くブラジルの発展に寄与しています。